本・音楽・ペット・合唱・その他色々、書いていこうと思っています♪

「ののう-梓神子の実態をさぐる」 という講演を聴いてきました

今日の午後は、こんな所に行って来ました。

望月

ここは、佐久市望月。
望月歴史民俗資料館の主催で、こういう講座が開かれたんです。
   ↓
ののう-梓神子の実態をさぐる

信州・東御市の祢津 (ねつ) に 「ののう」 と呼ばれた歩き巫女の村があったそうです。
「ののう」 については、以前、オコジョさんのブログ (オコジョの散歩道) で拝見して、ものすごく興味をそそられていたんです。
ちょうど今日、それについてのお話が聞けるというので行ってきました。

少しだけ書くと、

・地元では 「ののう」 と呼ばれていたが、他国では 「信濃の歩き巫女」 と呼ばれていた。
・4月に祢津を出発し、11月には 「えびす講」 のために帰る。
・「ののう」 は田畑を持っておらず、各地を歩いて口寄せなどを行ってお礼を貰い、えびす講で米・味噌・その他を買うために11月には帰る。
・口寄せには3種類あり、
 「神口」 神々の託宣を主とする。
 「死口」 亡くなった人の霊を呼び戻す。
 「生口」 生き別れた人の霊を呼び戻す。

その他諸々のお話だったのですが、詳しくは、思わず求めてしまった 「信濃の歩き巫女 祢津の里ノノウの実像」 を読んでから書くことにします。

とにかく、行って良かった♪ と思えるお話が聴けて大満足 

そうそう、これは連続で行われている講座で、次回1月は 「戊辰戦争と偽官軍事件 ~佐久地域を中心にみる~」 だって。
これも絶対に行かなければ。



※ 「ののう」 についての記述は、今日お話し下さった 石川好一様のお話と著作を基に書かせていただきました。
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「佐久を吹き抜けた尊王攘夷運動の嵐」  於:望月歴史民俗資料館

昨日は、望月歴史民俗資料館でこんな催し物があり、行ってきました。
ちらし望月

特に昨日は、かすみがうら市郷土資料館の千葉隆司氏による 「尊王攘夷のさきがけ 水戸藩天狗党」 という講演があったので、ぜひとも聴きたいと思って。
資料館の方が思ってもみなかった大勢の人が集まり、椅子は足りない資料も足りないで、係の方は大変でした 
私も資料館前の駐車場には入れず、少し離れた望月役場に停めて歩きましたよ。
だけど、望月の街並みを歩いて、やっぱり歴史があるわと感じました。

この趣ある三階建ての建物は、出野屋旅館。
いでのや旅館

正面から見ると
旅館2
(犬神家の一族のロケ地になりました) と表示されてました。
調べてみると、なかなか評判の良いお宿のようで、中山道をゆっくり歩いてここで泊まる、なんていうのも良いんでしょうね。

さて、資料館です。
資料館

中の展示物は残念ながら撮影NG。
だけど、幕末の激動の中、水戸で挙兵した天狗党は、慶喜を頼って京を目指す途中、佐久を通ったんですね。
上州下仁田から内山峠を越えた天狗党 約一千名は、佐久に入って平賀に泊まり、野沢⇒下中込⇒桜井⇒八幡、そして望月に入って来たそうです。

入ってこられた望月宿は大変だったようです。
そりゃそうですよね、千名の武装集団が来たんだもの。
着いたのは、旧暦11月18日、今の12月の午後四時頃、一人につき250文を払う、という事で、宿内のほぼ全ての家に勝手に入っていったとのこと。
250文を払ったのは890名分ほど、残り300名は人足ということで払わなかったそうです。

天狗党が出立後、幕府に命ぜられた追討軍が次々にやってきて、その度に継立を命じられ、宿場から 「どうか、御籾を百俵を拝借願い上げ候」 と頼んでいる文章が、脇本陣の鷹野家に残っています。

幕府に命を受けた各藩、陣屋は全く闘う気が無く、その姿を見て人々は幕府の権威が衰えたのを実感したとのこと。
この後、敦賀で頼りにしていた慶喜が自分たちの追討に回ったことを知り、加賀藩に降伏。
加賀藩は彼らを厚遇したが、幕府の田沼意尊率いる幕府軍が敦賀に到着すると状況は一変、加賀藩から引渡しを受けるとただちに天狗党員を鰊倉(鰊粕の貯蔵施設)の中に放り込んで厳重に監禁し、藤田小四郎ら一部の幹部達を除く者共には手枷足枷をはめ、ひどい待遇をした。

この時捕らえられた天狗党員828名のうち352名が処刑され、この時の鰊蔵はいまでも保存され、往時の悲惨さを物語っているそうです。

この時処刑された352名は、靖国神社に祀られているそうですよ。
靖国神社というと、太平洋戦争の戦死者が祀られていると思っていたけど、天狗党の隊員も祀られているんですね。
全然知りませんでした。
一度に350名もの人々が祀られているのは、天狗党だけだそうです。

幕末の動乱期には、天狗党、天誅組、赤報隊などが現れたけれど、どれも悲惨な運命を辿ったんですね。
歴史の大転換点って、どうしても血を必要とするんでしょうか。
酷いことです。

望月って、色々と興味深い展示や講演会を催してくれて、本当に努力をされているなと感心してるんですよ。

ヒッシオヒッシオ ワチワチ

今日は生憎の曇り空。
お天気は今一つだったが、すずと 「魂まりちゃん」 を乗せて、群馬県嬬恋村鎌原に出かけてきました。

時は天明三年(1783年)7月8日(旧暦です)、浅間山のふもと 鎌原(かんばら)村、今の群馬県嬬恋村鎌原で大きな悲劇が起こりました。

浅間山が大爆発。
鎌原村はあっという間に火砕流に押し潰され、村民約500名のうち助かったのはたったの93名のみという大災害となったのです。

その跡を訪ねて行ってきました。
ここは以前に行った事があるのですが、お正月のため資料館が閉まっており、ぜひ見てみたいと思っていたんです。

私は  「資料館・博物館・宝物館」 と見ると、どうにも自分を抑えられなくなり、突入してしまう癖があるんですよ。

さて、火砕流から必死に逃げ出した村民が助けを求めて駆け上ったのが「鎌原観音堂」。
鎌原観音堂1

観音堂内部
観音堂内部

埋まってしまった階段を発掘したところ、女性2人の遺体が見つかりました。
埋まった階段

資料館には発掘された時の様子と、その女性たちの顔を復元したものが展示してありました。
復元した女性

年取った女性と若い女性の2人。
年老いた母親(姑)を背負った娘(嫁)が階段を上る途中、火砕流に巻き込まれたのではないかとのことでした。
観音堂まであと35段という所でした。

火砕流は、 「ヒッシオヒッシオ ワチワチ・・・」 という異様な音をたてながら村へ押し寄せて来て、全てを押し流していったそうです。

観音堂に逃げて助かった村人は僅かに93人。
亡くなった人は477人。

それからがすごかった。

近隣の村の有力者の助言により、生き残った人々はみんな一族と見なして今までの身分や血筋を取り払い、新たな家族を作ったのです。

身分制の厳しかった当時、これは考えられない画期的な事だったようです。

夫を亡くした人と妻を亡くした人を夫婦にし、親を亡くした子と子を亡くした親が親子となり、 再出発。
今の鎌原村の人々は、その子孫という訳です。

今でも観音堂そばの建物には村の人が集い、私たちのような見物人にお茶と漬物を出してくれます。

村の人

あのね、まりんばも一緒に行ったの 
すず



おまけ  今日のまり写真です。
我が家に来た翌日に撮ったものです。シャンプー後のまり。
初めっからカメラ目線の得意なヤツでしたよ~
まり正面


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オレンジ公ウイリアム

高校の時、世界史の教科書に、この人の肖像画が載っていた。

暗記することが山のようにある世界史で、何故この人の絵だけを覚えているかというと、ズバリ!彼が 「ハンサム」 だったから。

何をした人かは頭から消えてるんだけど、オランダの人でハンサムだったことだけは、しっかり覚えている。

検索したら、同名の人が何人もいるみたい。

そして多分この人が、好きだった 「オレンジ公ウィリアム2世」

オレンジ公

ウーーーン・・・・

私が見惚れたオレンジ公は、この写真ではなかったような気がする。。。。

そうよ、もっとカッコよかったはず。
馬に乗っていたような気もするし。

でも、目鼻立ちは整ってるよね~ (そうだと言って!!)

そんな私に朗報!
少年期のウイリアム2世を描いた絵を探し出したのだ。

ウイリアム2世少年

どうです、この美少年ぶり。
お隣は妻になったイングランド王女メアリー。

それにしても、ポーズが同じだわね。

やっぱりオレンジ公ウイリアム(2世)は、ハンサムだったはずだワン 

まあ、そんなこんなで世界史は結構好きだった。

何を言いたいかというと、受験に関係ない科目でも、勉強すると結構楽しみがあると思うのよ。



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十津川水害 今昔 

初めに。

今日のブログはちょっと長くなってしまいそう。
どうかお付き合い下さい。


十津川が大変なことになっている。
ここは私にも無関係な土地では無い。
夫の祖父が十津川の出身で、言ってみれば父祖伝来の土地なのだ。

実は、十津川を大水害が襲うのは、今回が初めてではない。

今から122年の昔、明治22年(1889年)8月末、奈良県十津川を大洪水が襲い、壊滅的な被害をもたらした。被災した人々は家も土地も生活の糧も失い、なんと北海道への移住を決意したのだ。

まだ北海道などという名前も浸透せず、当時の人々の意識の上では蝦夷地だったろう。
そんな時代に北海道移住を決めたことが、まず大きな驚きだ。

十津川は奈良県の最奥。
昔から天皇家に対する崇敬の念が厚く、後醍醐天皇の皇子 護良親王が一時ここに隠れ、村人の保護を受けたという。

かの坂本竜馬も、暗殺された時、宿に訪ねてきた刺客が 「十津川の者だ」 と名乗ったためすぐに信用し、部屋に上がるように指示したというほど、十津川の勤皇は世に知られていた。


十津川の大災害は、あまりに辺鄙な場所だったためなかなか中央まで伝わらず、決死隊のようにやって来た使者たちによって五条の役所が知った時、役所は愕然としたという。


土地も流され、これ以上この土地で暮らす事を諦めたのだろう、十津川の指導者は政府に北海道への移住を願い出た。政府としても、北海道開拓を託せるし一石二鳥だったと思われる。

600戸 2489人の移住民を3回に分け、第1回目の移住がその年の10月24日に出発したというのだから、その早さに驚く。その中に、夫の祖父もその家族も含まれていたのだ。

神戸から出港し4日後に着いた所が、なんと私の故郷 小樽だった。
小樽から汽車で幌内 (ほろない) まで行き、そこから徒歩で居住地となる原野に向かったのである。

彼らはその地に根を下ろし、未開の原野に故郷をしのんで 新十津川 と名付け、営々と開拓を続けたのだ。考えただけでも、ものすごい苦難の連続だったろう。

夫の父は大人になってこの土地を離れたのだが、本家の人の話によると、今でも新十津川町の人達は父祖の土地、十津川と交流を続けているとのこと。

私はこういう話に弱い。
なんか鼻の奥がツンツンしてくるのだ。
故郷を思う人々の思いが、この年になって分かるようになってきたということだろうか。
同じく内地を出て北海道に根を下ろした、両親の気持ちが分かる年になったのかもしれない。


それにしても今回の水害の模様をTVで見ていると、昔も今も十津川は隔絶された土地である事が分かる。クネクネと曲がる川と道路を見ていると、余りの険しさに驚くばかりだ。こんなに文明が発達していても、土地の険しさは変わらないのだ。

かろうじて自衛隊のヘリコプターで物資は届いているようだが、あの寸断された道路は一体いつになったら復旧するのだろう。

十津川の一刻も早い復興を、子孫の身内の一人として祈るばかりだ。



※ 道新選書 川村たかし著 「十津川出国記」を参考にさせていただきました。


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お助けヒストリーチャンネル 映像の世紀

東京近郊に住んでいた頃、我が家は衛星放送を見られなかった。
もちろんお金が惜しかったから。

その頃お助け12チャンという、我が家限定の流行語があった。

他の局であまりに面白くない番組ばかりやっている時 「お助け12チャンにして!」 と叫ぶ。
そこで、TV東京 (12チャン) に合わせると、マッタリと時の流れる 「旅番組」、結構面白い 「お宝鑑定団」、ここまでやる人達がいるか!という 「TVチャンピオン」、そして大好きだったマサオ君が出ていた「ポチたま」 などが放送されていて、夜の団欒のひと時を楽しませてくれたのだ。


信州に来てみたら当たり前の話だが 「TV東京」は無い。
ガッカリ。

ところがちゃんとお助けチャンネルはあったのだ。
加入したケーブルテレビの局の中に 「ヒストリーチャンネル」 というのがあり、これが中々面白い。

今まででも 「ナチス第三帝国 知られざる真実」 とか 「レールのあった街」 とか興味深い番組を放送していたのだが、いかんせん新聞の番組表に載らないし、せっかく良い番組をやっていても見逃してしまうことが多いのだ。

それが7月16日から、かつてNHKで放送された 「映像の世紀」 をやる事が分かった。
この番組は 「NHK渾身の作」 という感じで、その素晴らしい音楽とともに脳裏に刻み込まれ、ぜひまた観たいものだと思っていたので、本当に嬉しい。

「映像の世紀」 は、世界30か国以上のアーカイブから収集した貴重な映像と回想録や証言等で20世紀を描いた番組(ウィキペディアより)
加古隆作曲の 「パリは燃えているか」 というテーマ曲も秀逸だし、何と言っても20世紀を揺るがせた事件や戦争や人物を、まるでリアルタイムのように動く映像で観られるのだ。

本で読むのも良いのだが、映像となるとそのインパクトは全然違ってくる。深く心に残る番組なのだ。家族全員でじっくりと観たい番組だ。
それにしても、もう少し早い時間にやってくれないかな。


映像の世紀テーマ曲 「パリは燃えているか」



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三木秀綱の奥方

横山篤美著 「ふるさと 野麦の道」 という本を借りて読んでみた。
野麦の道とは、飛騨と信州を結ぶ野麦街道のことで、山本一美著 「ああ野麦峠」 の舞台になった野麦峠も含まれる。

その中に、非常に印象深い話があった。

時は秀吉が天下制覇を企てていた、天正13年8月。
飛騨を治めていた三木自綱は、秀吉の命をうけた金森長近に攻められ、籠っていた飛騨高堂の城から京へ落ちのびて行った。

自綱の嫡子 秀綱は松倉城を守っていたがここも落城、奥方を伴って落ちのびて行った。落ち行く先は高原郷今見村。途中で奥方と別れ、それぞれ別に落ちのび信州で落ちあうことにしたと語り継がれている。しかし秀綱は途中、村人の落ち武者狩りに遭い、無念にも命を落とす。

一方、信州 島島谷の奥で何人かの樵が働いていると、徳本峠の方からひとりの美しい女房がきらびやかな身なりでよろけながら出てきた。

驚いた樵達は、「これは魔性のものに違いない」 と美しい着物や持ち物を奪い、梨の木に縛り付けた。女房は助けてくれるよう頼んだが樵達は相手にせず、家に帰った。着物も持ち物もそのうち木の葉に変わるだろう。

ところが着物も持ち物も、翌日になっても何も変わらない。不思議に思って昨日の梨の木の所に行くと、女房はまだそのままの姿で縛られており、彼らを見てニタニタと笑ったかと思うとたちまち息絶えた。

樵達はぞっとし、一目散に家に逃げ帰って寝込んでしまった。やがて彼らは業病にとりつかれて死に、その病はその家に代々続いた。

恐ろしくなって、女房から奪い取った物をどうにか処分したいが捨てることもならず、捨てても祟りを逃れられるとも思えず、ひたすら他聞を憚りながらこっそり持ち続けたが、昭和になって秀綱神社を建立し、めいめい夜分密かにそこに置いてくることになった。

今でもその品物は残っており、この本には着物の写真も載っている。この女性が秀綱の奥方であったかどうかは分からないだろう。侍女ということもあり得る。どちらにしても、ある女性がここで非業の最期を遂げた事は間違いないのだろう。

秀綱神社の写真を見ると、とてもそんな品物を納められるような立派なものではないのだが、ここにこの品物はまだ残っているのだろうか。

なんとも哀れな話だ。戦国当時、こんな哀話はいくらでもあったのだろう。その女房の絶望を思うと心が重くなる。

秀綱神社 秀綱を祭ったというより、後ろの巨岩が御神体のように思われる。


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板橋宿 近藤・土方供養塔

板橋に住んでいる子供から、こんな写メールが送られてきた。
板橋宿で処刑された近藤勇と、函館で戦死した土方歳三の供養塔だ。
説明文
近藤土方供養塔

この碑を建立したのは、新撰組で盟友だった永倉新八。
彼は戊辰戦争後、杉村家の婿養子となり、杉村義衛と改名して私の故郷 小樽に住んだ。

小樽での居住地は、小樽市役所玄関の左側辺りだったとのこと。そんな話は聞いた事も無く、後に新撰組の本を読み漁っていて知った事だ。あの辺はどんな風になっていたのかどうにも思い出せない。

そういえば、昔、お盆に帰省した時、いつもお墓参りに通った道沿いに 「樺戸集治監」 があった。ここには主に明治政府に抵抗した政治犯が投獄されて、北海道開拓に酷使されていた。

永倉新八は新撰組仕込みの剣の技を見込まれて、ここの剣道指南として勤めていた。今は資料館になっていて、一度は見学したいと思っていたのにその機会も無いまま今に至っている。木造の建物が残っており、玄関前に石段があったのを憶えている。

永倉は自分の墓も板橋に建て、分骨され埋葬された。
永倉新八
「新撰組永倉新八墓」という碑面の文字に、永倉の気概とプライドを感じる。

一度行ってみたかった板橋の近藤・土方の供養塔。写メしてくれて有難う!

板橋宿があるのは中山道。その道はずっと伸び、私の住むすぐ近くを通っているというのも感慨深い。


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八王子城

以前住んでいた所から電車を乗り継いで30分ほどで、八王子城の最寄り駅、高尾駅に着く。毎年冬の間だけ、高尾駅に見知らぬ同士が集まって、「八王子城を守る会」 主催の城跡探訪に行く。

八王子城を誰よりも良く知っている人達が何人もいらして、まるで自分の庭のように詳しく色々教えてくれた。冬に行かないと、夏は草も生い茂り虫も増え、とても登山など出来る状況ではなくなるのだ。

八王子城を歩く事はまさに登山そのもので、特に先生たちと訪ねると普通では絶対に知られていない埋もれた道を歩くことになるのだ。必需品は軍手とリュックと水。もちろんお弁当も。ものすごく急な勾配の斜面を草木に掴まりながら登っていると、本当に戦国時代の足軽の気分になってしまう。

天正18年旧暦の6月23日、敵方の兵士は夜陰に乗じてこの山をよじ登り、城を攻め落としたのだ。
城主の北条氏照は小田原城に入っていて留守、家臣とその妻子の他、農民や修験者、僧侶まで籠城していたらしい。

敵は上杉景勝と前田利家。 皆殺しにする覚悟で攻めてきた。
戦いは真夜中に始まり、城方の必死の抗戦にもかかわらず、早朝には落城してしまったようだ。

戦死者は諸説あるが、千人以上。 中には女性も含まれ、山麓のご主殿 (城主達が普段生活していた屋敷) 近くにある 「ご主殿の滝」 に、身を投げて死んだ女性は多くいたようだ。
この 「ご主殿の滝」  は今見ると本当に小さな滝で、ここから飛び込んで本当に死ねるものなの?と思ったら、皆、喉を懐剣で突いて飛び込んだとの事だ。

旧暦の6月23日といえば、今の7月下旬。 猛暑の最中だ。死体は腐り、ひどい有様になっていたろう。それ以来、この山は地元では忌山とされ、みな入るのを嫌がったという。

放置された死体を、現在も八王子にある相即寺の牛秀上人が村人の協力を得て一体一体戸板で下し、そこから寺まで大八車で運んで埋葬し、上に慰霊堂を建てたという。大変な作業だったに違いない。気持ちが悪い、等と思っていたら、こんな作業は絶対に出来ない。

偉い人だと思う。敵方の上杉・前田勢も黙認したのだろう。腐るがままにしておいたら、疫病だって流行したかもしれないし。今でも相即寺にはその時の慰霊堂が、地蔵堂となって残っている。今はコンクリートで固められたその床は、土のままだった以前には、点々と白い骨の破片が見えていたという

ところで上記の 「八王子城を守る会」 では、毎年、慰霊祭を行っている。時はまさに旧暦の6月23日その日だ。 昔の本に 「落城の日になると、他では良い天気でもこの山だけは荒れる」 というような記述があり、本当にそうなんだろうか?と興味があったけれど、私が参加した時は上天気で、山が荒れる事は無かった。

その代わり、とにかく暑い!! バスを降りてからお城までの長い道のりを、文字通り汗だくになりながら歩いた。途中、鬱蒼とした林の中にある城主氏照のお墓の前で、お坊さんを中心に般若心経を唱え、それからお城に向かう。ご主殿の滝前でお酒とお米を撒き、全員心からの黙祷を捧げた。

八王子城は心霊スポットとして有名だそうで、隣にあった美術大学ではしょっちゅう不思議な事が起きた、と聞いた事があるが、一番訪れている先生たちは一度もそういう目には遭っていないとの事。肝試し等と称して面白半分でやって来る人も多いらしいが、それはいけない事だ。きちんと霊を弔う気持ちで臨めば、亡くなった人達も祟ったりはしないと、私は思っている。

私は7,8回は探訪会に参加したと思うが、そんな程度では全く城の全貌は分からない。本当に奥が深くて、何の機器も無い頃にこういう城を設計し築き上げるとは、昔の人の技術は素晴らしい。

先生いわく 「昔はこの木々は全て伐採され、非常に見晴らしが良かったんです。城とは究極の自然破壊ですね。」 まったくその通りだ。樹木を伐採して山を丸裸にし、地形も変えてしまうんだから。

今、鬱蒼と木の繁った城跡を見るとかつての姿は中々想像できないが、見る人が見ると昔の姿がありありと現れるのだろう。その境地に至るまで城跡探訪を続けたかったが、残念ながら引っ越してしまった。
あの探訪会は、きっといまでも続いているのだろう。


* これを書くにあたって、 「八王子城を守る会」 の椚国男先生の書かれた「戦国の終わりを告げた城」を一部参考にさせていただきました。


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土方歳三さま

北海道生まれなので、函館はもちろん行った事がある。 五稜郭にも行ったのだが、その頃は土方さんの終焉の地だなんてそれほど知られた話ではなく、あまり取り上げられてもいなかったように思う。

そんな私が新撰組に興味を持ったのは、もちろん司馬遼太郎の 「燃えよ剣」
読んだ時、たまたま新撰組の中心メンバーの出身地、多摩地方に住んでいたこともあり、それに何と言っても資料で見た土方さんのハンサムな容姿に一目惚れ
まったくこの人は、現代でも十二分に通用する美男子だと思った。

多摩地方は新撰組関係の史跡が本当に多い。 家からちょっと車を走らせると、近藤勇や土方さんや沖田総司が稽古をつけに行った小島家が 「小島資料館」として、当時の面影を残したままの屋敷で残っている。
 
日野まで足を伸ばせば土方さんの生家があり、一室を土方歳三資料館として日曜のみ開館してくれる。その日は、部屋に入りきれないほどの人が集まるのだ。中には函館で撮った写真や、愛剣 「和泉守兼定」が展示されており、亡くなった5月には鞘から出して抜身のまま見せてくれる。

私は鞘のままで拝見したが、これを土方さんが使っていたと思うと、マジマジと見てしまった。はるばる函館から戻って来た写真と剣。これが今、こんなに大勢の人を魅了する事になろうとは、土方さんも思いもしなかったろう。

子供たちが小さい頃、「郷土を歩く会」 というのが開かれ、参加してみた。1番印象に残ったのは、街道沿いにある仏具屋さんの2階にひっそりと展示されてあった、天然理心流の巻物だ。

天然理心流とは、近藤勇が何代目かの師範となった、多摩地方で流行した剣術の一派だが、あの極く普通の家で見た巻物は、この剣術がいかにこの地方に根付いていたかを良く表していた。 まだまだあちこちの家の蔵に残されているのだろう。そういえば、近藤勇の前の師範もすぐ近くの出身で、その家もまだ残っているらしい。

多摩地方は天領として、農民の心の持ち方も藩領とは違ったらしく 「将軍様直々の百姓だ」 という優越感を持っていたようだ。天領は年貢も安く、農民の暮らしも藩の百姓より豊かだったらしい。それに将軍を守るのは天領百姓として当たり前だ、という意識もあったのかもしれない。

歴史の大きな流れと言うのは絶対に止めることは出来ないもので、新撰組がいくら頑張っても幕府の終焉は明らかだったが、渦中にいる当の本人達にそんな事が分かるはずもない。現代の我々には、彼らが滅びて行くのが分かっているだけに、最期まで幕府を守って戦った土方さん始め、会津藩や五稜郭に立て籠もった幕府軍に、どうしようもなく心を惹かれていくのではないだろうか。

函館山の麓に幕府軍の慰霊碑 「碧血碑」 というのが建っている。
”義に殉じた者の血は3年経つと碧になる” という言葉からその名がつけられたそうだ。何とも胸が熱くなる言葉だ。

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プロフィール

万見仙千代

Author:万見仙千代
出身は北海道、長い首都圏生活を経て、ただいま信州在住です。

愛護団体出身で、多分12才になるすず、2011年3月11日に保健所からやって来て家族になった、年齢不詳のまりの2ワンコの散歩を中心に、1日が回ってます。(まりは10月25日永眠しました。家へきて、たった7か月と2週間の生活でした。)

何をするにも、まず散歩から!
散歩は健康の秘訣です。

リンクはお気軽に。

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